飯岡直樹の履歴書

[最終更新日:2021年10月5日]

マックスストーン代表の飯岡です。
ページをご覧いただきありがとうございます。

この自己紹介記事は、これから出逢う方々に向けて書かせていただきました。
私がどんな親元に生まれ、どんな育ち方をし、社会人になり、独立して現在に至るまでの履歴書です。

生い立ち

私は1966年4月6日に東京の赤羽で生を享けました。
父親は大工、母親は洋裁、ものづくりの両親の元で育てられます。父親は大の野球好きで、私を小学2年生から硬式の野球チームに入団させます。チーム名は世田谷タイガース(現世田谷ボーイズ)です。
ただ野球をはじめると同時に、両親の夫婦喧嘩もはじまります。父親は左利きを強制し母親は右利きを強制、私は夫婦喧嘩を見たくないためそれぞれの両親の前では強制する利き手を使うことになります。これにはとても困りました.....。
しかし左右どちらの手でも物書きできるようになったことは不幸中の幸いです(笑)

高校時代

野球は中学校卒業まで続けます。高校野球で全国大会に出場するために、駒澤大学高等学校を受験します。しかし不合格.....。第二志望の保善高等学校に入学することになります。しかしこの高校の野球部は軟式しかありませんでした。仕方なく入部しますが途中物足りなくなり1年間で退部。目的を失った私はそれ以降糸が切れた凧のようになり、勉強をそっちのけで新宿歌舞伎町のディスコ通いの日々を送ります。
お金欲しさにアルバイトもはじめました。ファミマ・ローソンと渡り歩き、最後はガソリンスタンドに落ち着きます。大学に進学するつもりはなかったため、高校卒業後はそのままガソリンスタンドに就職します。
このガソリンスタンドでは接客などのサービスの基本を学ぶことになります。危険物の資格を取得し灯油配達を任され、夕方になると毎日配達です。
この配達の経験によって営業の基本を学ぶことになります。私が拠点に到着すると数人の方が配達車に集まります。この集まったお客さんにどんな声をかけるかが重要でした。お客様が喜ぶ話題で切り出すと、お客様は上機嫌になり会話が弾みます。その会話に反応するように近所の方が次から次へと灯油缶を持って集まってきます。私は元々人と話をすることが好きだったため、苦になるどころか楽しくて仕方ありませんでした。
このような配達をしていたためスタンドに戻る時刻はいつも閉店過ぎ(笑)。いつも所長に叱られますが、荷台のタンクが空になっていることを確認すると、いつも所長は褒めてくれます。叱られた後に褒められるギャップはとても心地よいものでした。この灯油配達の体験で私は「人は人から商品を買う」ということを学びます。

営業を本格的に学ぶ

ガソリンスタンドに2年も勤めたころでした。偶然高校の同級生がスタンドに訪れます。お金持ちの息子であまり好きになれなかった同級生です。その同級生は私の顔を見るなりスタンド一面を見渡し私にこう言います。
「おまえ、こんなところで何やってんの?」
プッツーン!とキレるとはまさにこの時のことを言うのでしょうか。怒りを抑えている私を見た先輩は「お前はあっちの車を担当しろ!」と言われその場を離れます。その後同級生は私を指さし、交互に自分の高級車を先輩に見せ自慢しているようでした。
同級生がスタンドを去ると先輩が私の元に近寄ってきて

翌日所長に退職願いを提出しすぐに転職活動をはじめます。
高卒の私は営業の仕事で身を立てること決意します。

転職活動で注目していた会社ありました。新日本工販(現:株式会社フォーバル)、大久保秀夫社長の提案力や交渉力の高さを雑誌で知りここでどうしても学びたいと思い面接を受けます。面接後しばらくすると結果連絡が入りますたが不採用でした。理由を聞くとこうでした「ごめんね。うちの会社は20歳未満は入社できないんだ」
私は4/6生まれです。面接を受けたのが3月上旬だったので4/6過ぎに再び面接を受けに行きます、同じ面接官でした。
面接官「君、先月に一度断ったのよね?」
私「はい。4/6で20歳になりました!」
面接官は爆笑しその場で採用が決まります。

この会社では営業を徹底的に叩き込まれます。一番お世話になった方は伊藤秀博氏(現レカムジャパン株式会社取締役)でした、伊藤氏の営業トークは素晴らしく会社で幾度となく表彰されていました。その教えのおかげで私の営業成績も日に日に上達し、支部でも上位にランクインするようになります。
1年もすると他の課の上司から声がかかります。
「会社を設立するからおまえも来ないか?」
この当時Canon製品を売りたいと切望しており、Canon販売(現:キヤノンマーケティングジャパン株式会社)への転職を考えていた頃でした。
しかし会社の立上げから一緒に体験できることは貴重です。聞くと「Canonの製品も扱う」とのことでした。声をかけていただいた中沢社長は経営に長け、谷川専務は営業に長けています。もう迷うことはありません、株式会社ベーシックシステムにお世話になることを決めました。

経営者の中沢社長から教わったことは、「どんなに会社が厳しくとも従業員の給与は絶やさない」こと、そして接客では、「お客様のクレームより先に、その先のお客様のクレームに対応すること」を学びました。
谷川専務からは、「お客様を喜ばすには、お客様に仕事を運んでくる人を喜ばす」ということを学びました。
唯一学べなかったことは、「人を育てる」ことです。約20年間で20人の部下を与えられ、全ての部下が私の元を去っていきました。

そんな社長や専務の期待を裏腹に私は起業を決意します。入社20年目のことです。
その日の夕方社長室に入り自分の意志を伝えます。
床に土下座し「どうか私に独立するチャンスをください!」
沈黙はしばらく続きます。社長がたたくキーボードの音だけが聞こえてきました。
毎月700万円の売り上げがなくなるのですから正直会社としては痛手です。
しかし中沢社長は私の決意を汲んで「わかった、頑張れ!」と言ってくれました。

退職後しばらくして退職金が入金されます。その額半年前に退社した同期の倍。
恐らく社長と専務が話し合った上で決定した額でしょう。「頑張れ!」というお二人の気持ちが通帳から伝わってきました。

起業の経緯

前職での私の営業スタイルは、お客様の困りごと解決でした。困りごとは販売していたコピー機とまったく関係ないことも対象です。
2005年頃になると、お客様の困りごとは徐々にインターネット絡みの内容に変わります。
「競合会社がさぁ~、こんなもの作って(ホームページ)うちのお客さんを持っていくんだよね」
そんな時代の変化を徐々に感じつつ、このままコピー機屋でいてお客さんの困りごとを解決できるのかと不安になっていた時期でした。

不安を抱えた中、神田神保町にある中堅ゼネコン会社で、その会社の最後のリプレース(他社メーカーからCanon)の納品日を迎えます。
納品後会長室にあいさつに伺うと、「話があるから座りなさい」と言われます。会長の話は、10年前に初契約をいただいときの話しから始まり、実は今月で引退するという寂しい話しでした。そして最後に私の迷いを吹き飛ばす話をされます。
「君のおかげで社員は皆仕事がしやすくなったと喜んでいる。でもね、君のおかげでうちが儲かったわではないんだ」
この瞬間まったく意味がわかりませんでした。意味がわかったのは一週間後です。
「お客さんに利益を運ぶ商売をしなさい」
この会長の話をきっかけに、Web屋として独立の決心をします。
2007年5月12日でした。

起業、そして母からの無言のメッセージ

起業後1年間はご祝儀の仕事をいただけましたが、2年目からはパタッとご祝儀が来なくなります。それでも自分には営業力があると過信していた私は、新規営業を開始します。
しかし商談にはなるもののまったく売れません。それもそのはず、前職で営業成績が良かった理由はCanonというブランドがあったからです。お客様からしてみれば、マックスストーンなんて社名は見たことも聞いたこともありません。興味本位に話は聞いてくれますが、それ以上はありません。最初の挫折でした。
そんな私もやっと3年目くらいから食える程度の売上を稼げるようになります。しかしここで欲が出ます。一発勝負とばかりにツールを3度開発しますがまったく売れません。ここで創業融資も退職金も使い果たします。今でも忘れませんが、月末会社の口座残高が、127,000円しか残っていなかったこともあります。起業から4年目のことです。

2011年3月東日本大震災。この震災で予定していた仕事もなくなり、私は関西に仕事を求めます。しかし営業の勝手がまったく違い不発に終わります。
東京に戻り過去のお客様を訪問すると、「東京から逃げた」と言われ鳴かず飛ばずに。今になって思い返せば、軸がなくとてもブレていた時期でした。

そんな状況の中、次の試練が訪れます。
2013年5月14日。この日私は朝から胸騒があり、昼から世田谷の実家に足を運びました。玄関の呼び鈴を鳴らしても応答がありません。スペアキーで玄関を開け居間に向かいます。居間は昼にもかかわらず電気がついていました。お袋の姿が見えないためと呼びかけると、キッチンに横たわったお袋の足が見えました。
急いで駆けつけるとお袋は倒れており上半身は裸、抱きかかえると意識があるものの私を見ても誰だかわかりません。すぐに救急車を呼び数分で救急隊が到着、救急隊員が救護に入るのを見計らって玄関の郵便受けに走りました。そこには7日分の新聞が重なっていました。

関東中央病院に搬送され手当を受けます。主治医から呼ばれ病状を聞くとやはり脳梗塞でした。
新聞が7日間分ポストにあった話をすると、主治医はその間の気温を調べ私に見せながら言いました。
「最高気温28度、最低気温11度、食事も採らず水分も採らず、そんな状態の中7日間生きていたのはまさに奇跡です」
その後病室に戻りずっとお袋の手を握っていました。夜の10時過ぎ、看護師さんが「だいぶ落ち着いてきたので、今日はもうお帰りになっても大丈夫です」言われるまま春日町のセカンドハウスに帰ります。

帰宅してすぐお袋と同じように上半身裸になり、廊下で横になりました。
床がとても冷たいんです.....。
涙が止まりませんでした。

その直後病院から連絡があります。お袋の様態が急変したようです。
すぐに車で駆け付けると心臓マッサージの最中でした。それから間もなく母は天に召されました。
享年75歳。

この日お袋は私を呼びよせました。私に何か伝えたかったことがあったのでしょう。
それからの私は、お袋が伝えようとしたことを考え続ける日々を送ります。

躍進の兆し

2014年正月、私はお袋が残したメッセージ追い求め、なぜか旧東海道五十三次を歩きはじめます。東京の日本橋から始まり京都の三条大橋がゴールです。
一歩一歩歩くことで、普段は見過ごしてしまう景色もゆっくり見れました。いまだに江戸時代と同じ景色が見える場所もあるんです。その景色はとても綺麗で美しかったことを覚えています。
人間は自分の目で見たものから影響を受けアイデアを生み出す。高速道路や新幹線から見た景色から生まれたアイデアとは競合しない何かがあるという考え方が芽生えます。

旧東海道五十三次を歩きは土日に行っていました。10月三重県に入る頃、一つのアイデアが生まれます。
「動画Web」
まさに2014年は動画元年の年、今後この動画をどのように活用するかがビジネスのカギでした。
弊社は2007年にWeb屋として起業し、これまで7年間Web制作一筋でしたが、このWebに動画をどう絡ませるか一つのアイデアが生まれます。

それから試行錯誤の上3年、そのアイデアが東京商工会議所に採用され2016年5月19日に動画活用セミナー講師として初登壇、その評判は中小機構・三井住友海上・板橋区振興公社・東京都中小企業診断士協会などに広がっていきます。
セミナーに登壇したことで多くの企業からお仕事の依頼を受けるようになり、2017年には経産省のIT導入支援事業者にも認定されます。製作費の1/2を補助金で制作できるようになり、2020年には3/4まで補助されます。この補助金のおかげでお客様の負担も大幅に減らせるようになりました。
まさに私が求めていた「ニッポンの中小企業の事業継続を支援する」基盤が整った時期です。

の仕事

2018年10月24日、念願のビルのワンフロアーテナントを借りられるまでに成長しました。
その新しい事務所のオープニングイベントで宣言します。
「これから私の仕事は社員を幸せにすることです。そして社員がお客様を幸せにします!」
この宣言は、前職を含め約30年間で私の元を離れた21人の部下への償い、そしてお袋が最後に私に伝えたかったメッセージだと思っています。

しかし宣言したのは良かったけれど、人材育成の右も左もわからない状態その後が大変でした。
そんな中、人材育成に長けた3人のコンサルの方に出逢います。
そのお三方からいただいた言葉をご紹介します。

「偉大なる経営者とは、部下が仕事をできるできないに関係なく、信じる勇気と覚悟を持った者だ」
大垣 雅則

「同じ靴を数カ月履けば、人により靴の形が変わります。君は自分の靴を基準に部下を評価していないか?」
「一輪の花があります。角度を変え何度も撮影すると、また違った良さがあることに気付きます。君は幾つの角度から部下を見ていますか?」
大島 誠

「言いたいことは言ってしまえ!ただし最後まで見守る覚悟が必要だ」
吉田 裕児

このお三方からさまざまなことを学び、ふたつの大切なことに気付きました。

  • 一番変わるべきは社長自身
  • 社長は社員に育ててもらうもの

現時点で社員からはまだ信頼されていないでしょう。信頼口座の残高はゼロに等しくもしかするとマイナスかもしれません。
しかし先の宣言から現在まで、誰からも辞めたいとは言われていません。社員も私が変わることを待ってくれているのだと思います。
その期待に応えるよう、日々社員を幸せにする勉強を続けます。

新型コロナウイルスへの挑戦

2020年1月新型コロナウイルスが猛威を振るい、さまざまなお客様から悲鳴とも言える相談がひっきりなしに届きます。
弊社は「ニッポンの財となる中小企業の事業継続を支援する」という経営理念を掲げています。この理念を掲げた経緯は、私がこれまで数えきれないほどの中小企業から学ばせていただいた恩を返すという決意が込められています。

ニッポンの中小企業はアナログ重視です。コロナ渦でデジタルのオンライン会議が必須になりとても困っています。
多くの企業で、デジタルシフトを目的にしていますが、私はそれは間違っていると思います。
私はこう考えます。

アナログという本質の良さを、デジタルという手段を用い生かす

中小企業はアナログの温かい接客経験が豊富です。対してデジタル企業はどうでしょうか?人をかえさないビジネスを重視しています。ネットでスピーディーに決済するシステムはまさにその典型です。
「人は、この人から買いたい」
これは時代が変わっても商売の本質だと思っています。

この答えを出すために、アナログをデジタルで生かす方法を会社を実験台にし試行錯誤を繰り返す。
先に失敗しておけば、お客様には成功方法を届けることができます。

弊社が存続する限り、ニッポンの財となる中小企業の事業継続を支援することを諦めずに考え続けます。